僕は吉川晃司さんの大ファンです。
将来は吉川さんのように、歌も歌えて演技もこなすことができるようなミュージシャン兼俳優になりたいと考えています。
注:イメージ画像(出典 Instagram)
吉川さんと同じく、僕も広島出身。ミュージシャンとしても俳優としても尊敬している、吉川晃司さんの人生に迫ってみました。
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吉川晃司さんは広島県安芸郡府中町出身です。1965年8月18日生まれの52歳。実家の家族構成は、お父さん・お母さん・お姉さん・吉川さんの4人家族です。
吉川さんのご実家は、元々広島で「吉川旅館」という料亭を営んでいたそうですよ。
お祖母さんが中心となって、旅館を経営されていたようですが、残念ながら戦争の影響を受けてお店を譲ってしまったそうです。
また、お父さんは一般の方ですが、若い頃は俳優をされていたそうですが、家業を継ぐために、俳優を諦めて板前になられたみたいですね。
吉川さんが俳優でも活躍されているのは、お父さんの影響が強くあったのかもしれません。
お父さんは板前というだけあって、小さい頃から吉川さんに料理を教えていたそうです。お父さんは「何をやるにも一番を目指せ!」という教えで吉川さんを育てたそうですよ。
こうして幼少期を振り返ってみると、ご両親と共に広島で過ごした時間が、いかに大切な日々だったのかが分かりますよね。
吉川晃司さんの出身小学校は広島県にある府中町立府中小学校です。
同じ学校の先輩には、俳優の宇梶剛士さん、後輩には元プロボクサーの竹原慎二さんがいらっしゃいます。吉川さん、宇梶さん、竹原さん…。お三方ともかなり強面ですよね。
そんな3人が同じ小学校へ通っていたなんて驚きですよね。
吉川さんは当時、ボーイスカウトにも入っていたので、風紀や規律を守る真面目な優等生タイプだったのかもしれません。
小学校卒業とは、広島県下屈指の進学校、修道中学校へ進学されています。ちなみにこの中学を志望した理由は「制服の袖にある白いラインがかっこよかったから」だそうです。笑
このころからオシャレで豪快でユニークな方だったんですね。
そんな吉川さんは中学時代から水球を始めました。以後は水球選手としても活躍されていたそうです。
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中学を卒業すると、そのまま系列の修道高等学校へ進学。
高校へ入ってからも水球の選手として大活躍。
高校ではさらに実力が開花し、世界ジュニア水球選手権大会の日本代表として、2年連続全日本高校最優秀選手にも選ばれています。
広島時代はスポーツ万能で活発な学生生活を送っていたんですね。
この頃、同じ水泳部だったチームメイトに誘われて、ロックンロールバンドのメンバーに加入します。
水泳とバンド活動を並行して行っていく中、佐野元春さんのライブを見て衝撃を受け、バンド一本で生きて行くことを決心したそうですよ。
その後、自らプロダクションへ手紙を送り、トントン拍子で事務所が決定。
その手紙の内容は「広島にスゴい奴がいる、見に来ないと一生悔いを残す」と自ら書いたそうです。吉川さんらしい、自信に溢れたエピソードですね。
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この時、所属事務所となった渡辺プロダクション。
吉川さんを「10年に1度の逸材」とみなし、凋落していたナベプロの起死回生のため、社長自らが音頭をとってデビューのためのプロジェクトチームを編成するほど力を入れていたそうです。
当時、水球の推薦で慶應義塾大学に特待生として入る話が来ていたにも関わらず、全てを蹴って高校を中退し、広島から上京。
人並み外れた行動力と自信、決断力には胸を打たれますね。
注:イメージ画像(出典 Instagram)
そして1984年2月1日シングル「モニカ」でデビューします。
この曲は、同年2月11日公開の主演映画『すかんぴんウォーク』の主題歌でした。
以降「サヨナラは八月のララバイ」、「LA VIE EN ROSE」、「ユー・ガッタ・チャンス」(オリコン3週連続1位)、「にくまれそうなNEWフェイス」(オリコン1位)、「RAIN-DANCEがきこえる」(オリコン4位)、「キャンドルの瞳」(オリコン2位)と立て続けにヒットシングルをリリース。
1984年の日本歌謡大賞最優秀新人賞、日本アカデミー賞新人賞など歌手と俳優の両部門で8つの新人賞を独占したのです!
「広島にスゴい奴がいる」という自らの言葉を、いとも簡単に現実のものにします。
ちなみに、1985年の始めに、デビュー1年目では史上2人目の日本武道館公演を行っています。その後、1988年に一時活動を停止した後、渡辺プロダクションの子会社へ22歳のとき移籍。
マネージャーの河村嚴生が代表取締役社長のセブンスエンタープライズ所属になります。そして、レコード会社も東芝EMIへと変わりました。
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ここで、元BOØWYの布袋寅泰さんとのユニット「COMPLEX」を結成し、翌1989年4月にシングル「BE MY BABY」をリリースし大ヒットさせています。
2017年、左側声帯ポリープが見つかり除去手術をされましたが、現在も「ツアーをもっとやりたい、まだ歌いたいという思いが夏からどんどんふくらんできて」という意向を持って元気に活動されています。
僕はこれからも、憧れの吉川さんのような存在になれるよう、精進していきたいと思います。
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参考:K2 NET CAST [KIKKAWA KOJI OFFICIAL WEB SITE]